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2014年1月3日金曜日

2014/1/3 わが母の記 → 中原中也 → 100年カレンダー

昨日(2014/1/2)、仕事初めだった しらいわ です。

たまたま実家に電話する用があり、母にそのことを話すと、無理しないようにね、とねぎらってもらいました。

電話を切って思ったのですが、母は12/31の夜まで働いていて、1/1の朝にはおせちやお雑煮を作って働いていますね。

主婦ってえらいなぁ、と思いました。感謝しかありません。




さて、年末、なんとなく泣きたくなってTSUTAYAで『わが母の記』をDVDレンタルしてきました。これ観て泣けば2013年の疲弊した心、中原中也的な汚れちまった悲しみが浄化されるかなぁ、と思ったのですが、自宅で観る機会がなかったので、オフィスで観ようとDVDを持ってきました。

パソコンで観ようと思います。(T_T)

と、まぁ、僕の悲しみといっても

・太った
・髪が抜ける

みたいなことですけどね・・・。



関係ないですがこのYahoo!知恵袋のベストアンサーはすごいです。お時間あるときにお読みください。



また、年末、こんな文章も書いてみました。
これも長いですので、お時間あるときにお読みください。


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いま を生きるための100年カレンダー
(長文です)




そのカレンダーを初めて見たのはある会計事務所でのことだった。知り合いになった会計事務所の所長のオフィスに遊びに行くと、その所長のデスクの前にそのカレンダーは貼ってあった。

これ、なんですか??

と訊ねると、


100年カレンダーだよ、と教えてくれた。



生まれ年から始まる100年カレンダー




100年カレンダー?生まれ年から始まる??


意味が分からなかった。


所長によれば、大きなポスターに100年分のカレンダーが書かれているのだという。しかも自分の生まれた年から始まる100年。

所長は1974年生まれとのことで、1974年からの100年分のカレンダーが1枚のポスターに書かれている。20年ごとに1行、下から順に1行ずつ計5行で100年分のカレンダー。

確かに、カレンダーをよく見ると、小さな文字で1日、1日の日付が記載されている。1日1日、1ヶ月1ヶ月、1年1年、それが20年で1行、という感じで100年。


あ、なんかすごい、と思った。よくわからないけど、おもしろい。


所長さんは楽しそうに話している。これがね、僕の生まれた日、というところには赤の付箋が貼ってあって、「←生まれた日」と書いてある。ふ~ん、と思う。

さらには、小学校に入学した日、中学校に入学した日の付箋も貼ってあり、1988年14歳の時には「初めて恋した日」という付箋もあった。ふふ、かわいい。

さらに目を移すと、2002年/28歳の時には「2つ目の会社に入社した日」、2003年/29歳の7月には「入籍した日」、2012年/38歳の時には会社を退職した日、という付箋もある。なんとなく楽しい、所長さんの人生が見える。


2020年7月には「葵タワー19階入居」と書いてある。葵タワーとは数年前に静岡駅北口にできたオフィスビルだ。これなんですか?、と訊ねると、僕の目標だよ、という。いまから7年後の東京オリンピック開会式の日にそのビルに入居するのを目標にしているのだという。おもしろいですね、私は言う。


ふとカレンダーの上の方に目を移すと、2049年、75歳の年に「命日予定日」と書いてある。

これなんですか?と訊くと、

僕の最期の日、予定だけどね、とのこと。

最期の日?と聞くと、

そう、僕の命はここで終わり、と答える。


どういうことだろう???よくわからない。


所長さんは楽しそうに答える。

このカレンダーはね、自分の人生を可視化することができるんだ。可視化、見える化ということだけど、生まれてから100年という時間をこのカレンダーは表す。その中にはいろいろなことがあるよね。その人にとってのすべてのイベントはこのカレンダーの中に納まっている。その中でも特に大切なのは生まれたときと、亡くなる日。亡くなる日については、100歳まで生きる人はほとんどいないから、だいたいの人はこの100年の中のどこかにその日がある。その日はいつかわからない。わからないけど、高い確率でその日はこのカレンダーの中にある。

人の人生はいつ終わるかわからない。それは誰にもわからないのだけれど、わからないからこそ、終わりを設定することに意味がある。自らで自らの生に終わりを設けることで、生が有限であることを強く意識することができる。もちろん、そこで自らの命を断つわけではなくて、仮ではあるのだけれど、生の終わりを仮にでも決めることで、命はだらだらと続かないと自覚できて、「今」を大切に生きることができるよ


と所長さんは言う。


そのとき、彼の携帯電話が鳴り、部屋から出て行ってしまった。

そのカレンダー、インターネットで買えるから、検索してみるといいよ、という言葉を残して。


部屋に一人残された私はカレンダーを眺める。静かに、そっと。


暗くなった窓の外からは冬の冷気が入ってくる。外は寒い。そして静か。



100年カレンダー… と私はつぶやく。


私は1985生まれで、いま28歳。このカレンダーが私のモノだとすると、下1行の20年が終わり、下から2行目の1行のうち8年目が終わろうとしている。私のカレンダーには小学校入学した日、大学に入学した日、今の会社に入った日などは書ける。初恋の日、初めて恋人ができた日も書ける。初めて恋が終わった日も書ける。


将来については何を書けるだろう・・・。


私の目標、目標というと固すぎるけれど、自分の将来に起こるであろうことについては何を書こうか。結婚する日、子どもが生まれる日、子どもは2人欲しいから、1人目が生まれた3年後くらい後にその出産予定日を書こう。その子どもが学校に入る日なんかも書きたいな。将来はマイホームも買いたいから、マイホームへの入居日も書こう。そのためには旦那さんになる人にはがんばってもらわなくっちゃ。


ふふ、なんか楽しい。夢が広がる。


ふと、目をカレンダー上で進めると、50歳という年齢がある。


50歳…。50歳は母が亡くなった年齢だ。


私の母は5年前、私が23歳の年に亡くなった。気付いたときにはガンが手遅れになっていて、治療できない状態だった。

ひとり娘の私は母と仲が良かった。子どもの頃から姉妹のように一緒にいた。私は母には何でも話した。学校であったこと、友だちのこと、勉強のこと、好きになった男の子のこと、男の子に好きだと言われた時のこと、そのときの気持ち、将来の進路に悩んだこと、会社であったイヤなことなど。ホントにいろいろ話をした。

母とはもっともっといろいろな話をしたかった。恋のこと、恋人との別れのこと、仕事とのこと、結婚のこと、父との出会いについてももっと話を聞きたかった、母が亡くなって父は急に老け込んでしまって昔のことは話さなくなってしまったので、二人が若かったことのことを聞きたかった。そして、私が幼かった頃の話をもっと聞きたかった。私が生まれたときの話も。

母のことを思うと涙が出る。母は私の中でまだ生きている。生きていて、いまは少し出かけているだけ。しばらく待っていれば、夕食の買い物を終えて帰ってきて、玄関に私の大好きな笑顔とともに現れる。あら、帰ってたの~、夕飯作るの手伝って、と言いながら。

母は料理が得意だった。ホントにいろいろな料理を私に作ってくれた。そして私は母と一緒に食事を作った。その姿をうれしそうに眺める父の姿も好きだった。でも、そんなことはもうない。もう二度とない。


母が亡くなって長い時間が流れた。


母は50歳で自分が死ぬとは思っていなかったはずだ。体の線は細かったけれど、病気にはなりにくい人だったから、基本、元気だった。私と口げんかすることもあったけれど、いつもおだやかで、優しくて、楽しい人だった。


大好きだったお母さん、なぜあなたは死んでしまったのだろう。なぜもっと長く生きていてくれなかったのだろう。私はいつもあなたに会いたいのに。あなたと会って話をしたいのに。他の誰にも言えないこと、いちばんの親友にも言えないことを私はあなたに話したい。たくさん、ホントにたくさん私はあなたに話したいことがある。一度でいい、私はあなたに会いたい。



もし母がこのカレンダーを知っていたら、自分が50歳という若さで亡くなることを知っていたら。私との関係は変わっていただろうか。もっともっと、いろいろなことをたくさん話しただろうか。ずっとずっと、父があきれてしまうくらい、ずっとあなたと私は話をしただろうか。


もう、わからない。母は亡くなってしまった。


そして、私は私のことを考える。私が私のカレンダーを持っていたら、と考える。


私は何歳のときに終わりを迎えるのか。母と同じように50歳か、それとも70歳か、80歳か。わからないけれど、自分で終わりを定めるのも良いと思った。自分の終わりを明確に意識して、その瞬間、瞬間を生きつつ、周りにいる人にたくさん話しかけよう。将来の夫、子ども、友人たち、みなにできる限り話をしよう。それが私のできること、しなければならないこと。それが私にとって人を愛するということ。


いまを生きるため、終わりを定めよう。終わりを定めて、終わりを意識して、いまを生きよう。


このカレンダーを買ってみよう。1985年から始まる100年カレンダー。そして自分の部屋に貼ろう。毎日このカレンダーを眺めるのだ。カレンダーには母が亡くなった50歳という年齢で母の命日に大きなしるしをつけよう。それまでは私と母は別の人生を生きる。私は私の、母は母の。でも、母が亡くなった日以降は、私と母は一緒に生きよう。母が生きられなかった時間を、私は自分の生の中に取り込んで生きてゆこう。


母は私の中で生きる。


お母さん、私はあなたが亡くなってから深い悲しみと喪失の中にいました。それでも今日から新しい生き方を生きられそうな気がします。お母さん、ありがとう。長い間落ち込んでいてごめんね。天国からそんなんじゃだめだよ、って何度も叱ってくれてたよね。ごめんね、やっと立ち直れそうだよ。


いつかあなたに会うその日まで、あなたに話したいことをたくさん集めておきますね。たくさん、たくさん、集めておきます。そして、その時が来たら、一緒に料理を作りながら、ずっとずっと話をしようね。


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